Artical-s Blog.

家賃3.8万円

死ぬまで、やります

小説003 / 一話


塀を飛び越え、知らぬ人が住む家の屋根を伝い、風を切りながら空を駆ける。
いつもはこんな、人ならざる行動は抑えてはいるが、しかし今日に限ってはそんな余裕は無い。

 

急がなくては。

 

最寄りの駅からバスで二十分、そこから更に普通の人が普通に歩いて十五分の場所に位置する辺境の地に在る大学の六限目が終わったのは午後六時。
現在時刻は午後八時二十分。
メールの着信から四時間が経っている。
もっと早くに気がつけば、授業なんて抜け出して走り出していたのに、タイミング悪く授業中に携帯を見れば「集中しなよ」と肘をついてくる他称天才少女が隣に座っていて、彼女に反応するのは面倒だから、携帯が鳴っている事に気が付きながらも僕はその振動を無視し真面目に授業に取り組んでいた。その後、彼女に連れられて一人じゃ入れないというファストフード店で新商品の品評会なんてしていたらこんな時間になっていた。

 

急がなくては。

 

閑散とした地域から、姉貴が入院していた病院に向かう。徐々に建物が多くなり落下する危険は減るのだけれど、通る人も多くなり、そのため僕が屋根を駆ける姿が誰か目に写る可能性も増えていき、それが姉貴に伝われば殺されるかも知れないけれど、そんな事はどうでもいい。

 

急がなくては。


そうして、僕がたどり着いた頃にはもう午後の九時を回っていて、病院の周りはとしていた。
屋根伝いに走りながら「屋上から姉貴の病室の窓に飛び入れば一刻も早く姉貴に会える」と思ったけれど、しかしその選択肢はやめ、極力人目に付かないよう地面に降りる。
そうしたのはいきなり押し掛けては姉貴に負担がかかるかもしれないと思ったからだし、それに、姉貴は今までいた僕が知る病室ではなく、他の病室に移動しているかもしれない。

よく分からないのだ。
出産の事については。

だから、人ならざる移動はすれど、人としてしっかりと、病院の受付で名前を申し出て、その可愛い受付の人が主治医に話しをしてもらいに行った永遠にも思える五分弱、その間ずっと姉貴から貰った腕時計を見て過ごし、そして、

「ただいま、面会謝絶となっております」

と言われ、僕は凍りついた。

 

病院で面会謝絶と言われ、家族だからと言ってもそれを覆すこともできない無力な僕はあまりの遣る瀬無さに受付の可愛くもないお嬢さんに何も言わず背を向けて、病院を出た。
けれどやはり諦められないから、病院の受付からは見えない位置から壁伝いに屋上まで上がり、広紀さんに「屋上にいます」とメールを打つ。
もしかしたら会えなくても姉貴の様子を聞くことくらいはできたかも知れないけれど、しかし僕は実際の姉貴か、広紀さんから話を聞く以外に信じられない。
僕は姉貴が大好きなのだ。姉貴が結婚した広紀さんはその次で好きだ。他の人からの姉貴関しての話は全て嘘が入り混じっているように思う。

だから、屋上で待つことにした。
煙草を吸おうと思ったけれど、ふと気づく。来る途中にライターを落としたらしい。何処かの屋根の上から滑り落ちて、路上にでも落ちているだろう。走ってきた方向を見ながら、諦めようと思った。

待ち始めてから二十分ほどたった頃に雨が降り始めた。ここに向かっている途中、空は暗く、屋根から二度ほど落ちそうになった事を思い出す。もともと、降りそうな空模様だった気もする。
次第に強くなる雨は、静かになりゆく街をその音で満たす。体が冷えていくのを感じ、雨宿りができる場所を探すが、ここには雨を凌げる場所なんて無かった。病院内に入ろうかと思いもしたけれど、屋上と最上階を結ぶ階段の扉は閉まっていて、その上、何を思ってかやたらと頑丈な扉が取り付けられている。


僕は雨に打たれながら、広紀さんが屋上に現れるのを待った。

 


そして、朝になった。

現在、午前七時。あれから雨は降り続け、未だに僕を濡らし続けている。
今日は大学の授業も無いし、広紀さんが屋上に来ずとも、あと二時間ほど待ったのちに面会をもう一度申請すれば、姉貴の様子を知れるのでは無いかと思った矢先、頑丈な作りの扉がゆっくりと開いた。

そこから、スーツ姿のすげえイケメンが、姿をあらわす。雨に濡れるのも厭わず、僕に駆け寄る。
そして彼は、言った。
「悪い! 病院を出てからメールに気がついた!」
そういう声は謝っているようには聞こえなかったけれど、僕は笑って答える。
「きっと、それどころじゃなかったでしょうしね」
「悪かった。 それを分かりながら君は俺にメールしたみたいだけどね!」
と、一夜の間待った僕を労う気なんて全くない様子で元気に答える彼にはしかし何だかその声に疲れが混じっている気がした。
「姉貴は?」
僕は、今日、厳密に言えば昨日、ここに来た理由をやっと聞いた。
「ああ。帝王切開だからね……数日は痛みを伴うらしい。けど、子供は無事に生まれたよ。元気かは分からん。泣いていたからね」
そういう彼は、とても、嬉しそうだ。
「そうですか。痛みって、どれくらい?」
「さあ……? わからない。知れないさ」
「……確かに。すみません。変なことを聞いて」
そういうと、彼は「いや」と手を振った。
「君が伊織のことが大切なとこを俺は知っているからね。かくいう俺も妹が大好きで、俺のことが好きで仕方がないだろう姉貴がいる。だから、その気持ちは分かる気がするよ」
「すみません、ほんと……」
いや、ほんとさ、と笑いながら、
「まあ、兎にも角にも、大丈夫さ。……伊織にあっていくかい?」
そう言いながら広紀さんは、腕時計を見やる。もしかしたら、会社に向かわなければならないのかもしれない。
以前、「出社する必要はなく、仕事をこなせばいい会社」と言っていたけれど、やはり仕事には行かなければならないのだろう。僕は、話を切り上げることにした。
「いえ……雨に濡れて不衛生だし、姉貴が大丈夫ならそれで良いです。それに痛みが伴うというのであれば、もう少し経ってからまた来ますよ。そのうち連絡も来るだろうし」
そう、そもそも姉貴の出産と聞いて、落ち着けなくて、俺は駆け出してしまったのだ。少し落ち着けば良かったものを、姉貴に会いに行くために、そのくせ姉貴が聞けば咎められるような行動をしてしまったのだ。
「まあ……」
と、色の変わり始めたスーツを少し気にしながら、広紀さんは言う。
「心配なのは、分かる。俺は、その君の行動は嬉しいしね。恋愛感情ではなく、伊織を守れる男が二人……いや、俺の親父も含めりゃ三人か。それだけのガードがあればあいつは不幸に襲われる事も無さそうだし」

そう言って、僕たちは一緒に病院を出た。

 

広紀さんとは駅で別れ、僕は家よりも近くにある友達の家に向かうことにした。
「うわっ! 何でそんなに濡れてんの! 気持ち悪い!」
そう言いながら風呂場からバスタオルを持ってきてくれる彼女はやはり、僕の唯一の理解者だった。

彼女が講義の時に僕の隣に座ってさえいなければ、僕は姉貴の出産に間に合ったのかも知れないけれど、けれど、僕はやはり姉貴のすぐ側に居ることは叶わなかっただろう。その役目は広紀さんにある。弟は出産には立ち会えないと思う。両親ならともかくそう思う。分からないけれど。

だから結局、僕は病院の中で出産のその時が終わるのを待つか、病院の外で姉貴の様子を聞くかという違いしかなかったと思う。
事の成り行きを彼女に伝えると、
「じゃあ体で払う! 払い続けるよ!」
と、言うので、僕は「遠慮しておくよ」と丁寧にお断りした。
しかし、と僕は考えてみる。「体で払ってもらう、つまり繋がって子供を産む行為をおこなう」というのはつまり「子供が生まれる」ということだ。
僕は、それが起きたからこそ、取り乱してしまった。
僕にも、僕が生むわけではないけれど、そういった時が来たら、姉貴は俺の所に駆けつけてくれるだろうか。
やってみる価値はありそうだ。
「前言撤回。やっぱり、良いよ」
僕はそう言ったけれど、彼女はいつの間にか、この部屋には居らず、キッチンの方に立っていた。
遠くから、彼女が「何か言った?」と声を上げていう。
僕は「なんでもないよ」と、同じくらいの声で返した。


二人でテーブルを囲む。
並べられた朝食は、彼女の普段通りの食事で、この食事に関して彼女はいつも「私ってば天才ね」と言うのだけれど、こればかりはあまりに普遍的すぎて、他称天才とはならないだろう。
けれど、僕はこの朝食が好きだった。
彼女の見た目に反して、日本人然とした朝食。白米と味噌汁と鮭の塩焼きと海苔。
毎日来ているわけではないのに、僕が来るときには必ず二人分の食事がこさえられて、僕はいつも不思議に思う。
彼女曰く「君が来るタイミングなんて簡単に見当がつくのよ。何ならカレンダーに書いてもいいくらいにね」ということ。
それを聞いた僕はカレンダーに書いてくれよ、そしたら僕はその日以外にここに訪れるから、と言ったけれど、彼女は「そしたらまた、同じことよ」と言い、部屋に掛けられた無骨なカレンダーに、僕の未来の来訪日の印は未だ書かれていない。
僕たちは、こうして二人で食事を取るとき、他愛もない会話をする。主に、最後に出会った日から、また出会い食事をとるその瞬間までに起こった事がそのほとんどを占める。
「その広紀さんって方の名字はもしかして、石鯛だったりする?」
彼女は鮭に箸を伸ばし、その身を半分にしながら言う。
「え? 言ったっけ? そう、石鯛だよ」
僕は少し驚き、動かしていた箸を空中に静止させた。
「有名な人さ。……驚いた様子だけど、しかし本当に驚いたのは私の方だよ」
と、さも平坦に言う。細かく分けた鮭を口に含み、食べながら彼女は言う。見た目は可愛いのに食い方は汚い。そこはたまに残念に思う。
「まあ、どうして有名かと問われれば答えに困るのだけどね。けれど、悪い意味で有名というわけじゃあない。少なくても君にとっては、良くも悪くもない。ただ、有名な理由があるというだけだよ。だから、君は誇っていい、有名な人と姉貴が結婚した、と。なんなら君はもう、働かなくていいほどの資産も共にあるぜ! なんて言っても差し支えないね」
「え? そのレベル?」
僕は彼女の言葉を信じきれず、訝しむ。僕の知る広紀さんは、ジャンクフードが大好きで節約のために煙草の本数を減らし酒の席では割り勘でとても庶民的な人だ。
「うん、そのレベルさ。君は心から信じている人と、そうでない人の区別があまりにも両極端だけれど、しかし信じる事と縋ることの区別がついているからこそ、石鯛という人間の財力を教えるのだけれど、彼はとても……凄く財力を持つ男だよ」
「へえ……」
と僕は、なんとも間の抜けた声出してしまう。
日頃の彼の庶民的な印象からは想像がつかないその事実は、僕の心から信じる彼女の言葉だから信じることはできるけれど、しかしそれが石鯛広紀さんという人間像に当てはまるかといえば、そんな事はない。
意外な一面を知ったけれど、それは実は違う石鯛広紀だった、そんな矛盾した感覚になる。
そうして、食べながら話す彼女は食事を終え、食べながら話さない僕は食らいきれていない鮭を食べ始める。
僕が食べ終わると同時に彼女は立ち上がり、食器をお盆に乗せながら言った。
「まあ、私ほどじゃあ、無いけどね」

僕は今日、授業がないのだけれど、彼女には授業が無い日が無い。
従って彼女は大学に向かう準備をし、当然のように僕は寝転がって本を読んでいた。
「濡れた服は洗濯しておくから置いておいてくれ。部屋を出る時は鍵をかけるのを忘れないでね。っていうか、帰る気ある?」
「ここに居てはだめなのか?」
「……別いいけど、どうせ昼には帰るでしょう? それなら一緒に出たいよ。行くときは残していくのに、帰ってきたら居ないなんて、そんなの、寂しすぎる」
そう言いながらも微笑む彼女は、それでもそれが本心で、寂しさがあることを語る。
しかし、時刻は九時二十分で、今日よら授業は十一時から始まるという。ここから最寄りの駅までは、彼女の足なら走って二十分。次の電車は九時四十分。その次は十時半。次の電車を逃したら遅刻するだろう。僕がこれから立ち上がり、本をカバンに詰め、ジャケットを羽織るという一連の身支度で五分かかるので、一緒に家を出ることは嫌じゃないけれど遅刻は逃れられない……と、そこまで考えて気がつく。
気がついた僕は、言う。
「歯磨きしてないけど?」
「問題ないよ。不衛生の才女とは私の事さ」