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家賃3.8万円

死ぬまで、やります

小説003 / 三話


いつの間にか、空を見ていた。
前日の雨に打たれた公園の地面はぬかるんでいて、彼女から借りた服が土によって汚れている。
隣を見ると、高校生の彼も仰向けに大の字になって空を仰いでいる。
彼はいつの間にかブレザーを脱ぎ捨ていた。
「あんたも、俺とおんなじじゃ、ないですか……」
「いやまあ、俺だって、君の初手が来るまでその確信はなかったよ……しかし、まあ、久しぶりに、全力出したわ、ほんと……」
僕たちは、喧嘩をした。
とはいうものの、僕たちに目立った外傷はない。確かに、喧嘩の最中にバランスを崩して倒れた時や、殴られた時の衝撃を殺し切れずに木に受身を取った時についた傷はあるけれど、しかし、直に殴られた傷はない。
そもそも僕たち天秤症候群は、医学的にその存在を認められているわけじゃない。
運動行動として出す結果が人よりも著しく強いだけで、人としての構造が同じである以上、あまりにも強い力で殴られれば、その部分は死んでしまう。
僕たちは、互いの拳を受け止めるか、交わすかで喧嘩をし続け、その体力が尽き、仰向けになっている。

僕は、視線を空に戻し、隣の彼に問いかける。
「なあ、君は、君が、学校の球技大会を休んだ理由……つーか、今日って、球技大会だよね?」
僕は、ほとんどうろ覚えと推測で言った言葉の確証を得ていなかった事を思い出し、彼に問うと「ええ、そうですよ」と言った。
「ああ、そうか。うん。君が球技大会にさ、出ない理由はやっぱり、力の発現が強いから、だろう?」
「……はい」
と、彼は僕を向きながら、言う。
その顔は、ただ動く何かをただ見ている表情ではなく、人を見るときの人の顔だった。
こうしてみると、可愛らしい顔をしている。僕に男色の気はないが。
「分かるよ……俺もそうだったから。力のセーブが出来ないんだろう? いや、できるかもしれないけれど、できるかもしれないって不確かな気持ちで生きるのは、辛い。すごく、分かる……」
僕は、落ち着き始めた肺から、酸素を絞り出し彼に伝える。
「君が、さ。もし自分の力をセーブしたいのなら、さ。俺が普通の頭のおかしい人間だと思っている時に向けていたあの目……あれを、やめることだ。もし、周りの人……同級生や生活上ですれ違う人に向けているとするなら、絶対にやめるべきだ。
そうしなきゃ、君は力を抑えられない」
そういう僕に、意外そうな顔をする。
意味がわからない、と言いたいのかもしれない。だから、僕は行動にうつす。
「僕の手を、握ってみてくれよ」
と、左手を差し出す。
握手ならば右手を差し出したいのだけれど、僕たちは仰向けになっていたから、僕の左側に位置する彼に手を差し伸べるためには左手を出すしかない。
彼は僕の意図がわからないようだったけれど、右手を差し出し、僕の手を握る。ぼくはそいつを握り返す。
「ほら、ね?」
優しく絡まった手を持ち上げて、僕はいう。そして、その意図が分かったのだろう、彼は少し驚いた顔をした。
「君は僕を、対等であると認識しているから、僕の手を握ることに、その価値の分だけの力を込めている。それ以上でもなく、それ以下でもない」
僕が浮かせた手の力を抜くと、彼の手はゆっくりと地面に吸い込まれた。
僕はそれを見ながら、伝え続ける。
「僕たちは、どんな人間とも対等だ。それは医学的にも認められているし、社会的にも然りだ。まあ、認められているっていうにはあまりにも不平等かもしれないけれどね。だから、僕たちは普通に生きている事を自覚して、周りも対等だと認識すること。それが、力をセーブする方法」
僕は、彼に微笑んでみせる。
彼は、ぼくをみて、少しだけ悲しそうな顔をした。
「でも、それは、辛い」
そう、彼は呟いた。
「ああ。辛いだろうね。だって、彼らを自分と対等だと見れば、そいつらが言うこともまた、対等な立場からの発言になる。君も、散々言われてきたんだろう? 色々とさ。周りの誹謗や中傷を同じ人間として受ければ、君は傷つくし、時には怒るだろう。怒り殴れば、人とは変わらないけど、あまりにも違いすぎる僕たちはその人を傷つけるだろう。僕たちが周りからの悪意を意に返さない一番楽な方法は、人としてみないことだ。けれどね、人としてみない以上、僕たちは人に対し「普通に」触れることなんてできない。僕たちが及ぼす影響を、その未来を想像できない。想像できないのは、怖い。人としてみないくせに、その人が壊れることが、怖い……言い方悪くなって、ごめんね」
僕は矢つぎ早に伝えた言葉が、彼を傷つけていないか心配になり、付け足す。それを聞いた彼は笑った。
「なんだ、優しいんですね。さっきはすげえ馬鹿にしてきたくせに」
「……さっきは悪かった。あれは、僕の好奇心で、君を怒らせたかった。君は……僕に似ていたから」
「似ていた?」
「うん。僕も、球技大会の日、同じようにここに座っていたから」
そういうと彼は、少し意外そうな顔をした。
「貴方も、力がセーブできなかった時があるんですね」
「さも意外そうに言うけど、当然のようにセーブできなかったよ」
過去を思い出しながら、僕は自身の体験を伝える。
「それで、見学扱いでも良いからさぼらずに出席していれば体育の補講を受けずに済んだのに、僕は途中からここにきて、体育の補講を受けて、そこでも参加できずに保健室に行って、そこで偶然いた相談員の人に助けられて、いま大学に通っているよ」
その人と共に、ね。とは、言わなかった。
個人的なことは、それだけにしておこう。
「君は、球技大会を抜け出たわけだけど、補講は大丈夫? 何とかなりそう?」
そういう僕に、彼は自然な笑顔で答えた。
「いえ、今日以外の体育の授業は全て出ていますし、これから休まなければ、補講を受けずに済みます」
そして、僕たちはそれきり会話が止まり、しばらくの間人目もはばからず、空を見上げる。
何分か経った後、この地域特有の市民館のスピーカーから流れる「十二時のチャイム」が聞こえてきた。僕たちはそれを合図に、立ち上がる。
「帰ろうか」
僕はいい、
「はい。今日は、ありがとうございます」
と、彼は右手を差し出す。
僕は「さっきは逆の手だったからね」と笑いながら応じて「じゃあね」と伝えた。
彼は、「本当にありがとうございました。惚れちゃいそうです」と、微笑んだ。

 

「ホモなのかもしれない?」
今日は白米、味噌汁、目玉焼き、ひじきという朝食で、一昨日の話を終える頃には二人ともそれらを食べ終え、食器も洗って片付けすら終わってしまっていた。
「っていうか、君もまた物好きだね……優しさと同義だけど、しかし同意ではないよ? まあいいけど。でもさ、君はその子を男の子として見ていたようだけど、本当にその子は男の子かい? 男の子であるという、または女の子でないという確証がないうちに、その子を男の子として受け入れ、ホモだと断定するに早いよ……」
彼女は呆れた風にいう。
「でも、どちらにせよ、今まで誰かと触れる事を拒んだ人間が、いきなり喧嘩をして、その上に優しく手を触れ合ったりすれば、その衝撃はかなり大きいものだろうね。確かに、恋に落ちるかもしれない。まあ、そんなことになったら楽しい楽しい私の嫌がらせが始まるだろうけどね、柊君?」

小説003 / 二話

普段の生活で、塀を飛び越え、知らぬ人が住む家の屋根を伝い、風を切りながら空を駆ける、何てことはしない。
あくまで僕は、一般市民として生活をしている。
体を使えばその分、対価として寿命が減るかもしれない、という臆病な恐怖があるのも否定はできないけれど、しかし、それ以外にも理由はある。
姉貴に叱られるからだ。
その理由は「普通の人としてあってほしい」からだそうだけれど、僕がどれだけ僕の力を使おうとも、僕は医療機関にも社会制度にも認められた人であることには変わりがないのだから、その意味を理解できない。
けれど、姉貴に叱られるのは嫌なので、僕は真っ当であることを選ぶ。
その理由が、僕の納得する理由であるならば、僕はそれを普通の人並の力しか出さない理由の一つにできるのだけれど、残念ながら姉貴が好きであるということと、その言葉を自分のものにするのは別問題だ。

他称天才少女の家を一緒に出て、彼女が駅に向けて走り出した後、僕はそれを背にして、近くの公園まで歩き出す。
いつのまにか雨は止み、水溜りが陽の光を反射している。
彼女と別れた後、もう一度彼女の家に戻ろうかと思ったけれど、しかしそれは無粋だとも思い、彼女を追いかけて駅に行っても大学に行く用事はないし、家に帰っても本を読んで過ごすだけなので、僕はなんとなく、今日の過ごし方を考えるためにという理由をつけて、彼女から借りたライターを持って僕と彼女の家の中間地点にある公園に向かうことにした。

学校のある日、駅に向かうために公園の横を通り過ぎる必要がある。
行きつけって訳ではないけれど、ほとんど毎日のように通ればさほど広くはないこの公園の何処に何があるのかなんて、把握しようともせずに知れている。
その、いつも通りの公園の、いつもは誰も座っていないベンチの上に、人の姿が見える。
その横に僕の御目当ての灰皿が置いてあるのだけれど、しかしどうして、平日の昼間、他に誰もいないこの状況下で、その人影はそこにいるのだろう。
遠くからスーツを着たサラリーマンが煙草でも吹かしているのかな、と思ったけれど、近寄って見て気がつく。上着はスーツではなく、紺色のブレザーで、左胸には校章が貼られている。
彼はどこかの遠くの方をぼうっと見つめていたが、近づいて立ち止まった僕の姿に気がつき、顔をこちらに向ける。
その表情はどこか険しいが、そのあどけなさの残る顔を見て、僕は確信する。
彼は、高校生だ。
そして高校生らしく、煙草を吹かしているわけではない。真っ当な高校生でしかない。
制服を着ているのだし、今日はきっと、彼の在籍する学校はお休みではないのだろう、しかし、サボってここにきている。
そう見当をつけるけれど、僕だってそんなことくらい、日常茶飯事だった。他人である僕が咎めることも無いだろう。
こちらを見続けている彼に、僕は尋ねる。
「煙草を、吸ってもいいかい?」
彼はなぜそんなことを聞くのだろう? という表情をした後、右手を灰皿の方に向けて、
「どうぞ」
と、言った。
「どうも」
と言い、僕は煙草に火を付ける。
彼女の家で吸うこともできるのだけれど、しかし彼女は喫煙者ではない。
その家で、なぜか用意されている灰皿を使うのは気がひけるので、僕はいつも、我慢している。
一日ぶりに加えた煙草の煙を肺に入れ、口から吐き出す。とても、美味しい。最高だよラッキーストライク。僕は隣に座る彼に気がつかれないように、表情を緩ませる。

彼は僕が二本の煙草を吸い終えるまで、そこに座り続けていた。
一番最初の会話以外、僕たちの視線が交差することも、言葉が飛び交うこともなかったけれど、しかし彼はそこに居た。
三本連続で煙草を吸うのはやめておこうと思い、僕はパーカーのポケットにそれらを仕舞う。
そのまま家に帰って本の続きを読もうかと思ったけれど、不意に気がつく。
ベンチに座っていた彼が、僕のことを見ていた。
けれど、その口元が動くことはない。その目は、なんだか気だるげそうだ。まるで人を見ている表情ではない。
ただ動いている生き物を、ただ見ている風。
僕はその表情を見て、彼に俄然興味が湧いてきた。
「なにか、僕に、用事でも?」
まるで彼が喧嘩を売り、そして僕がそれを買う、そんな構図だけれど、彼は別に喧嘩を売っている訳ではないらしく、首を振った。
「いえ、何でもないです。……すみません、不躾に見てしまって」
「いや、大丈夫だよ、いや……大丈夫じゃあないかもね? 君は高校生だよね? 平日の昼間に、制服で、こんな所にいて良いの?」
と、僕はまるでお節介な大人のように彼に問う。
「ああ。学校は、さぼりです。親に見つかったら、怒られるでしょうね。けれどまあ、大丈夫ですよ。怒られても、構わない」
本当に構わないのだろう。罪悪感も、恐怖感も含ませず、ただ単調に彼は言う。
「ちなみにさ。今日は何かをイベントでもあったの? そのブレザーの下、ジャージだよね? 僕が高校生の時は、ブレザーの下はワイシャツだと相場が決まっていたけど、今はそんな風習、廃れたってわけ?」
彼はその質問に、少し呆気になり、そして、今までの会話の中で初めて、苛立ちを含めて僕を見た。
「あーまあ、そんなところです。ブレザー着て学校行って、帰りは脱いでジャージで良くない遊び、みたいな、そんなのが流行ってるんです」
彼は面倒くさくなったのだろう、あからさまな嘘を言う。だから僕も、そのあからさまな嘘を、掘り下げてやることにした。
「なるほどね……。ん? いや、少し待ってよ。いや実はね、僕も昔は君と同じ高校だったんだけれどね? まあ、もしかしたら校則も今じゃあ変わってしまってるかもしれないけど、僕が在学していた時は、そもそも学校に制服を着て行く必要はなくて、普通に普遍に私服が許されていたと思うんだよ。いや今は分からないけれどね? 分からないさ。確かに制服も存在していたから、もしかしたら制服着用遵守になっているのかも? ……仮に校則が変わらず今も私服登校が許されるならさ、別に良くない遊びのためにジャージを着込む必要はないんだよねー。いや、君のことを疑ってる訳じゃないよ? でも君の格好ってちぐはくだよねー。ジャージの上に制服。なのに君は、運動靴を履いている。制服着用を義務付けながら靴はその限りではないってのも、おかしい話だよね?」
まあ、制服着用が義務ならば、良くない遊びのためにジャージを着込むというのも分かる気がするけど、しかし、やはり、校則に変わりはないはずだ。
その根拠はたまに彼女から聞く愚痴にある。何せ彼女は、そこの学校の非常勤講師で、僕が出会ったのはその生徒だったからだ。
彼は、しばらく呆気にとらわれていたが、面倒な奴に絡まれたと思い至ったのだろう。僕から視線を外し、膝に手を付き立ち上がり、僕に背を向け歩き出そうとする。
「無視かい? まあ、良いさ。別にいいけどね、嘘をつかれた人間として、糾弾させてくれよ。君が嘘をついたのは二つ。制服の下にジャージを着ている理由がよくない遊びのためってことと……」
僕は、声に笑いを含ませて言う。
「親に怒られても構わない。ってことだね?」
その声に、彼は、僕に背を向けたまま立ち止まる。
その肩は震えていないけれど果たして、その顔は分からない。しかし、容易に想像がつく。
僕はそれでも、続ける。
以前、確固とした彼への興味を持って。
「そんでね、話している間に思い出したんだよ。そういや、この時期だよね、球技大会ってさ? いや、今日というこの日こそがそうなのかな? 確か、見学者はジャージの上にブレザーを羽織るってのを義務付けられていたはずなんだけれど、そうだよね? だから、君は、その格好なんだよね? 君は見学者のくせに、サボっているから、その格好なんだろう? いや、サボるために見学者なのかな? どっちでもいいけどさ、一つ言いたいことがある」
そして、僕は、少しタメを含み、今度は平坦な声で、明らかな差別用語を唱える。

「君ってもしかして『テンビー』だったりする?」

そして、彼は、その言葉を聞き、振り向き、僕の方を睨みつける。
まるで「散々学校でも言われているその言葉を、外でも聞かなきゃいけないなんて」みたいな、理不尽に対する子供の感情のような、そんな顔を僕に向ける。

「テンビー?」

僕はもう一度いう。
僕も散々に言われてきた言葉を、僕の好奇心で彼を傷つけようとも、僕は言う。

テンビー。

馬鹿っぽいその言葉は僕たちへの侮蔑用語で、社会的にはしっかりとした名称がある。
天秤症候群。
それが、僕たち「人ならざる身体能力を持つ人間」に付けられた二つ目の名前だ。
天秤にかけているのは、片方に身体能力。そして、もう片方に、それ以外のその人の全てだ。
社会は「身体能力と寿命をかけているため」という。つまり、身体能力が重すぎて、寿命が軽くなっている、つまり早く死ぬ。それが、この現象の理由だ。
それ以外に、理由はない。
とは言うのも、もし仮に「常人より著しく筋力が強いため、体力の消費量がまた、常人よりも多く、早く死ぬ傾向がある」といった、この現象の確固とした理由が見つけられているのであれば、これは現象とは呼ばれず症状と呼ばれ、また天秤なんて言葉は使われず、たとえに則るなら「筋力馬鹿病」みたいなネーミングとなるだろう。
しかし、そうならない。なってはくれないのは、ただ、身体能力が著しく高く、そのため、早死にする傾向がある。というその事実のみしか明らかになっていないからだ。僕たちの体内構造は常人と一緒だし、これといった精神的な疾患も見受けられない。確かに蔑まれ、人として扱われないと嘆き鬱になる人は多いと聞くが、それは環境因子による発病が多い。天秤症候群とは、なんら関係がないといわれている。

だからこそ、僕たちは、蔑まれる。
結果として身体能力が高いというだけで、その理由だけで僕たちは避けられる存在となる。
僕はもう、テンビーなんて、言われても何も思わないようにできるけれど、しかし、一つだけ許せないことがある。
僕にとってはそうであるけれど、未だに対峙する彼にとってはどうか、分からない。
けれど、そうであるかもしれない以上、僕は彼に言ってみる価値がある。

「いやね? テンビーってさ、人よりもすげえ身体能力が高いらしいから、同じ人を見るときの顔がまるで、違う生き物を見るような表情らしいって聞いたんだ。そう、さっきまでの君の顔だよ。今は殺すぞゴキブリ野郎、みたいな顔をしているけどね。それで、僕は君がテンビーだと思ったんだ。そしてね、君が家族に怒られるのを、構わないって言ったことを嘘だと思ったのは、最初から見学するつもりなら、運動靴を履いて学校に行くとは思えないんだよね。でも、君は現に靴を履いている。それは、誰かに、ジャージを着て靴を履いて家を出る姿を見せなきゃならなかったんじゃない? それに、聞いたことがあるんだよ」
聞いたこともない事を、僕は言う。

「テンビーってさ、家族好きで有名じゃん。
ああ、かわいそうに。
人じゃないくせに、人が好きなんて。

その家族が、かわいそうだよ」

僕も、いつか、そう思っていた。
家族がかわいそうだと。
姉貴がかわいそうだと。

けれど、人から言われるのと、自身を客観的にみて悲観してそう思うのはわけが違う。
僕は、明確に、彼の家族を馬鹿にしている。


彼が僕に拳を構える。
踏みとどまるのは当然だ。
身体能力が人よりも高いなら、その力で人を殴れば、人よりも強く傷つける。

だけれども、僕は殴られて当然なことを言っている。
そして、殴られても、大丈夫。
彼の力が見てみたい。
天秤症候群は、案外、同じ症候群者に出会えない。

僕は、同じ悩みを抱えていたことがある。
同じように、僕はこの日、ベンチに座っていたのだから、僕にはそれがわかる。
僕の過去を見ているようだ。
だから、興味がある。
彼の未来に。
同じテンビーだろうが、彼と僕は違うから。

だから、確実に拳が出るまであと一歩、その手を引いてやる。

「ああ、かわいそうだ。
人なのに、人じゃない子を産んだ親がさ。
いや……もしかして決めつけてたけど、
君はもしかして、
人かい? それとも、テンビー?」

社会的な人だけれど、
日常での扱いは人じゃない。
僕たちは日常を生きている。
だから、売られた喧嘩の答えは、

「人じゃねえから殴っても良い」

小説003 / 一話


塀を飛び越え、知らぬ人が住む家の屋根を伝い、風を切りながら空を駆ける。
いつもはこんな、人ならざる行動は抑えてはいるが、しかし今日に限ってはそんな余裕は無い。

 

急がなくては。

 

最寄りの駅からバスで二十分、そこから更に普通の人が普通に歩いて十五分の場所に位置する辺境の地に在る大学の六限目が終わったのは午後六時。
現在時刻は午後八時二十分。
メールの着信から四時間が経っている。
もっと早くに気がつけば、授業なんて抜け出して走り出していたのに、タイミング悪く授業中に携帯を見れば「集中しなよ」と肘をついてくる他称天才少女が隣に座っていて、彼女に反応するのは面倒だから、携帯が鳴っている事に気が付きながらも僕はその振動を無視し真面目に授業に取り組んでいた。その後、彼女に連れられて一人じゃ入れないというファストフード店で新商品の品評会なんてしていたらこんな時間になっていた。

 

急がなくては。

 

閑散とした地域から、姉貴が入院していた病院に向かう。徐々に建物が多くなり落下する危険は減るのだけれど、通る人も多くなり、そのため僕が屋根を駆ける姿が誰か目に写る可能性も増えていき、それが姉貴に伝われば殺されるかも知れないけれど、そんな事はどうでもいい。

 

急がなくては。


そうして、僕がたどり着いた頃にはもう午後の九時を回っていて、病院の周りはとしていた。
屋根伝いに走りながら「屋上から姉貴の病室の窓に飛び入れば一刻も早く姉貴に会える」と思ったけれど、しかしその選択肢はやめ、極力人目に付かないよう地面に降りる。
そうしたのはいきなり押し掛けては姉貴に負担がかかるかもしれないと思ったからだし、それに、姉貴は今までいた僕が知る病室ではなく、他の病室に移動しているかもしれない。

よく分からないのだ。
出産の事については。

だから、人ならざる移動はすれど、人としてしっかりと、病院の受付で名前を申し出て、その可愛い受付の人が主治医に話しをしてもらいに行った永遠にも思える五分弱、その間ずっと姉貴から貰った腕時計を見て過ごし、そして、

「ただいま、面会謝絶となっております」

と言われ、僕は凍りついた。

 

病院で面会謝絶と言われ、家族だからと言ってもそれを覆すこともできない無力な僕はあまりの遣る瀬無さに受付の可愛くもないお嬢さんに何も言わず背を向けて、病院を出た。
けれどやはり諦められないから、病院の受付からは見えない位置から壁伝いに屋上まで上がり、広紀さんに「屋上にいます」とメールを打つ。
もしかしたら会えなくても姉貴の様子を聞くことくらいはできたかも知れないけれど、しかし僕は実際の姉貴か、広紀さんから話を聞く以外に信じられない。
僕は姉貴が大好きなのだ。姉貴が結婚した広紀さんはその次で好きだ。他の人からの姉貴関しての話は全て嘘が入り混じっているように思う。

だから、屋上で待つことにした。
煙草を吸おうと思ったけれど、ふと気づく。来る途中にライターを落としたらしい。何処かの屋根の上から滑り落ちて、路上にでも落ちているだろう。走ってきた方向を見ながら、諦めようと思った。

待ち始めてから二十分ほどたった頃に雨が降り始めた。ここに向かっている途中、空は暗く、屋根から二度ほど落ちそうになった事を思い出す。もともと、降りそうな空模様だった気もする。
次第に強くなる雨は、静かになりゆく街をその音で満たす。体が冷えていくのを感じ、雨宿りができる場所を探すが、ここには雨を凌げる場所なんて無かった。病院内に入ろうかと思いもしたけれど、屋上と最上階を結ぶ階段の扉は閉まっていて、その上、何を思ってかやたらと頑丈な扉が取り付けられている。


僕は雨に打たれながら、広紀さんが屋上に現れるのを待った。

 


そして、朝になった。

現在、午前七時。あれから雨は降り続け、未だに僕を濡らし続けている。
今日は大学の授業も無いし、広紀さんが屋上に来ずとも、あと二時間ほど待ったのちに面会をもう一度申請すれば、姉貴の様子を知れるのでは無いかと思った矢先、頑丈な作りの扉がゆっくりと開いた。

そこから、スーツ姿のすげえイケメンが、姿をあらわす。雨に濡れるのも厭わず、僕に駆け寄る。
そして彼は、言った。
「悪い! 病院を出てからメールに気がついた!」
そういう声は謝っているようには聞こえなかったけれど、僕は笑って答える。
「きっと、それどころじゃなかったでしょうしね」
「悪かった。 それを分かりながら君は俺にメールしたみたいだけどね!」
と、一夜の間待った僕を労う気なんて全くない様子で元気に答える彼にはしかし何だかその声に疲れが混じっている気がした。
「姉貴は?」
僕は、今日、厳密に言えば昨日、ここに来た理由をやっと聞いた。
「ああ。帝王切開だからね……数日は痛みを伴うらしい。けど、子供は無事に生まれたよ。元気かは分からん。泣いていたからね」
そういう彼は、とても、嬉しそうだ。
「そうですか。痛みって、どれくらい?」
「さあ……? わからない。知れないさ」
「……確かに。すみません。変なことを聞いて」
そういうと、彼は「いや」と手を振った。
「君が伊織のことが大切なとこを俺は知っているからね。かくいう俺も妹が大好きで、俺のことが好きで仕方がないだろう姉貴がいる。だから、その気持ちは分かる気がするよ」
「すみません、ほんと……」
いや、ほんとさ、と笑いながら、
「まあ、兎にも角にも、大丈夫さ。……伊織にあっていくかい?」
そう言いながら広紀さんは、腕時計を見やる。もしかしたら、会社に向かわなければならないのかもしれない。
以前、「出社する必要はなく、仕事をこなせばいい会社」と言っていたけれど、やはり仕事には行かなければならないのだろう。僕は、話を切り上げることにした。
「いえ……雨に濡れて不衛生だし、姉貴が大丈夫ならそれで良いです。それに痛みが伴うというのであれば、もう少し経ってからまた来ますよ。そのうち連絡も来るだろうし」
そう、そもそも姉貴の出産と聞いて、落ち着けなくて、俺は駆け出してしまったのだ。少し落ち着けば良かったものを、姉貴に会いに行くために、そのくせ姉貴が聞けば咎められるような行動をしてしまったのだ。
「まあ……」
と、色の変わり始めたスーツを少し気にしながら、広紀さんは言う。
「心配なのは、分かる。俺は、その君の行動は嬉しいしね。恋愛感情ではなく、伊織を守れる男が二人……いや、俺の親父も含めりゃ三人か。それだけのガードがあればあいつは不幸に襲われる事も無さそうだし」

そう言って、僕たちは一緒に病院を出た。

 

広紀さんとは駅で別れ、僕は家よりも近くにある友達の家に向かうことにした。
「うわっ! 何でそんなに濡れてんの! 気持ち悪い!」
そう言いながら風呂場からバスタオルを持ってきてくれる彼女はやはり、僕の唯一の理解者だった。

彼女が講義の時に僕の隣に座ってさえいなければ、僕は姉貴の出産に間に合ったのかも知れないけれど、けれど、僕はやはり姉貴のすぐ側に居ることは叶わなかっただろう。その役目は広紀さんにある。弟は出産には立ち会えないと思う。両親ならともかくそう思う。分からないけれど。

だから結局、僕は病院の中で出産のその時が終わるのを待つか、病院の外で姉貴の様子を聞くかという違いしかなかったと思う。
事の成り行きを彼女に伝えると、
「じゃあ体で払う! 払い続けるよ!」
と、言うので、僕は「遠慮しておくよ」と丁寧にお断りした。
しかし、と僕は考えてみる。「体で払ってもらう、つまり繋がって子供を産む行為をおこなう」というのはつまり「子供が生まれる」ということだ。
僕は、それが起きたからこそ、取り乱してしまった。
僕にも、僕が生むわけではないけれど、そういった時が来たら、姉貴は俺の所に駆けつけてくれるだろうか。
やってみる価値はありそうだ。
「前言撤回。やっぱり、良いよ」
僕はそう言ったけれど、彼女はいつの間にか、この部屋には居らず、キッチンの方に立っていた。
遠くから、彼女が「何か言った?」と声を上げていう。
僕は「なんでもないよ」と、同じくらいの声で返した。


二人でテーブルを囲む。
並べられた朝食は、彼女の普段通りの食事で、この食事に関して彼女はいつも「私ってば天才ね」と言うのだけれど、こればかりはあまりに普遍的すぎて、他称天才とはならないだろう。
けれど、僕はこの朝食が好きだった。
彼女の見た目に反して、日本人然とした朝食。白米と味噌汁と鮭の塩焼きと海苔。
毎日来ているわけではないのに、僕が来るときには必ず二人分の食事がこさえられて、僕はいつも不思議に思う。
彼女曰く「君が来るタイミングなんて簡単に見当がつくのよ。何ならカレンダーに書いてもいいくらいにね」ということ。
それを聞いた僕はカレンダーに書いてくれよ、そしたら僕はその日以外にここに訪れるから、と言ったけれど、彼女は「そしたらまた、同じことよ」と言い、部屋に掛けられた無骨なカレンダーに、僕の未来の来訪日の印は未だ書かれていない。
僕たちは、こうして二人で食事を取るとき、他愛もない会話をする。主に、最後に出会った日から、また出会い食事をとるその瞬間までに起こった事がそのほとんどを占める。
「その広紀さんって方の名字はもしかして、石鯛だったりする?」
彼女は鮭に箸を伸ばし、その身を半分にしながら言う。
「え? 言ったっけ? そう、石鯛だよ」
僕は少し驚き、動かしていた箸を空中に静止させた。
「有名な人さ。……驚いた様子だけど、しかし本当に驚いたのは私の方だよ」
と、さも平坦に言う。細かく分けた鮭を口に含み、食べながら彼女は言う。見た目は可愛いのに食い方は汚い。そこはたまに残念に思う。
「まあ、どうして有名かと問われれば答えに困るのだけどね。けれど、悪い意味で有名というわけじゃあない。少なくても君にとっては、良くも悪くもない。ただ、有名な理由があるというだけだよ。だから、君は誇っていい、有名な人と姉貴が結婚した、と。なんなら君はもう、働かなくていいほどの資産も共にあるぜ! なんて言っても差し支えないね」
「え? そのレベル?」
僕は彼女の言葉を信じきれず、訝しむ。僕の知る広紀さんは、ジャンクフードが大好きで節約のために煙草の本数を減らし酒の席では割り勘でとても庶民的な人だ。
「うん、そのレベルさ。君は心から信じている人と、そうでない人の区別があまりにも両極端だけれど、しかし信じる事と縋ることの区別がついているからこそ、石鯛という人間の財力を教えるのだけれど、彼はとても……凄く財力を持つ男だよ」
「へえ……」
と僕は、なんとも間の抜けた声出してしまう。
日頃の彼の庶民的な印象からは想像がつかないその事実は、僕の心から信じる彼女の言葉だから信じることはできるけれど、しかしそれが石鯛広紀さんという人間像に当てはまるかといえば、そんな事はない。
意外な一面を知ったけれど、それは実は違う石鯛広紀だった、そんな矛盾した感覚になる。
そうして、食べながら話す彼女は食事を終え、食べながら話さない僕は食らいきれていない鮭を食べ始める。
僕が食べ終わると同時に彼女は立ち上がり、食器をお盆に乗せながら言った。
「まあ、私ほどじゃあ、無いけどね」

僕は今日、授業がないのだけれど、彼女には授業が無い日が無い。
従って彼女は大学に向かう準備をし、当然のように僕は寝転がって本を読んでいた。
「濡れた服は洗濯しておくから置いておいてくれ。部屋を出る時は鍵をかけるのを忘れないでね。っていうか、帰る気ある?」
「ここに居てはだめなのか?」
「……別いいけど、どうせ昼には帰るでしょう? それなら一緒に出たいよ。行くときは残していくのに、帰ってきたら居ないなんて、そんなの、寂しすぎる」
そう言いながらも微笑む彼女は、それでもそれが本心で、寂しさがあることを語る。
しかし、時刻は九時二十分で、今日よら授業は十一時から始まるという。ここから最寄りの駅までは、彼女の足なら走って二十分。次の電車は九時四十分。その次は十時半。次の電車を逃したら遅刻するだろう。僕がこれから立ち上がり、本をカバンに詰め、ジャケットを羽織るという一連の身支度で五分かかるので、一緒に家を出ることは嫌じゃないけれど遅刻は逃れられない……と、そこまで考えて気がつく。
気がついた僕は、言う。
「歯磨きしてないけど?」
「問題ないよ。不衛生の才女とは私の事さ」

小説002 / 四話

くだらない自分語りをしてしまうくらいには、今のぼくは暇だ。

いま、この一時が暇なわけではなくて、いまこの生活自体に暇を感じていた。それは刺激を求める若者のそれで、こんなものはもっと歳をとればなくなる感情だとも思う。そうは思っても、暇だというのは間違いなく事実で、ぼくは暇を潰せる何かを――新しい何かを求めていた。

とはいっても、新しい何かを始める労力を嫌うぼくに出来ることといえば、手元にあるスマートフォンで知らない世界のことを調べることくらいだ。

 

ふと、SNSで流れてきたまとめサイトの一つの記事が目に留まった。

(今、流行りのスマートフォンアプリ「Ark」その実態に迫ってみた!) 

 

なんとなく、その記事に目を通してみる。

その「Ark」というアプリでは、ある場所がランダムで指定されいて、その場所では指定された時間に何かが起きる、らしい。事前にその何かに参加するには自身のプロフィールを登録する必要があり、その時間までに掲示板で情報交換ができるというもの。

その場所で起こる事をイベントと呼ぶらしいが、その時間になってみないとイベントの内容が分からない事、そもそも何も起こらない事なんてザラにある事を踏まえた上でも、興味深い現象が起きているらしい。

 

(「Ark」が予知? 殺人事件の実態に迫る!)

(模倣犯によるもの?  爆発するドラム缶)

(辺り一帯が停電!  人為的なものではないとの事)

(花火大会、一斉噴射! 死傷者は無し)

 

他にも何件あるらしいが、それがどれも「Ark」によるイベント発生地点で起きた事らしい。

 

まったくもって、まともな記事ではないと思う。本当にアプリの予定通りに何かが起きたなんて信じることはできないし、そんなものに時間を費やしている人がいることすら阿呆臭く思えるけれど、興味をそそられはした。

 

暇つぶしになるのなら。

 

アプリをスマートフォンに入れるのはそんな手間でもないし、実際に「Ark」で遊ぶのは後で考えればいい。気が向いたらやろう。

 

小説002 / 三話

現代人には、好きな人がいない。

そんな売り文句が流行っていて、ぼくもその中の一人だ。
けれど、そう言う著者の大半は恋愛における好きな人のことを言っていて、ぼくの場合はもう、恋慕なんて関係なしに好きな人がいない。
いや、いるのかもしれない。自分の中で良い感情を持っている人に対して、好きだという評価を付けることはできる。できるけれど、しかしそれは、好きな人を誰かに挙げなければいけない状況でしか生じ得ない。
 
まあ、人間そんなもんか。
 
そんな自分の事を淡白だとか、冷たいだとか、そんなふうに思ったことはない。それが自分なのだし、周りの好きだという感覚なんてわからないのだから、ぼくが淡白なのか、冷たいのかなんて決めることはできない。
ただ、周りからそう思われるかもしれない、という可能性に気がついたのは、そんなぼくの考えを聞いた友達が「彼女が出来たらそういうこと言わないほうがいいよ、冷たい人間だと思われるから」と言っていたからで、こんな僕の考えを誰かに言うことなんてほとんど無いだろうから、ぼくはきっと、周りからそう思われることはないだろう。
普段の生活で冷たい人だと思われるような行動は慎んでいる――というより、誰かに助けを求められた時や、手伝いが必要だと思われるときに手を貸すことは厭わない人間だから、むしろ優しい人間だと思われていると思う。
思われていたところで、何がどう変わるわけでもないのだが。
 
 

小説002 / 二話

駅前で路上ライブを行う少年がいた。

 

-さよならって言えたなら、少しは楽になったかな。

 

音楽とは素晴らしいものだ。

言葉にしただけなら、ただ恥ずかしくなるものでも音に乗せて歌えば伝えられる気がする。とは言っても、ぼくには音楽の才能はなかったからもうギター弾くことはないだろうし、自分の気持ちを人の歌で代弁してもらおうなんて思わない。自分の気持ちを歌っている歌を探して出して、つたえたい相手にプレゼント、なんてつまらない人間のやる事だ。

 

だからこそ、自分で歌を作って誰かに歌える人はとても魅力的で、とても悔しく思う。

 

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ただ生きているだけで時が過ぎて、今年で二十七歳になる。

果たして、今日は仕事帰りに友達と飲んだのだけれど、解散してから今まで何をしていたのか思い出せないが、時刻は深夜二時を回っていた。

去年に越してきたアパートの玄関のドアの鍵穴は錆びていて、開けるのにはちょっとしたコツが必要だ。酔った頭ではうまく開けられない。

そうして手間取っていると、隣の部屋から一人の女性が出てきた。

 

「……大丈夫ですか?」

 

こんな時間に鍵穴に苦戦していたからだろう、十センチほど開けたドアの隙間から不審そうな顔でそう言った。

「ああ、すみません。こんな時間に、迷惑でしたよね」

精一杯の社交的な、けれど申し訳ないというニュアンスの表情を作り、彼女にとって謝る。

「いえ、この時間は起きてるので、大丈夫です。そっちのドアも、鍵が開きにくいんですね」

彼女はそう言って微笑んだ。ドアの隙間は変わらないから、警戒は解いてないのだろう。

その後、それじゃ、おやすみなさい。と言って彼女は部屋に戻っていった。

そうこうしながら、やっと開いた扉から部屋に入り、すぐにベッドに仰向けになる。

 

考えてみたら、隣人の顔を初めて見た。

築何年経ったかも分からないほどのアパートに、ぼくと年齢の近い人が住んでいることは知っていた。

隣の部屋からは、若い異性の性行為の切れ端の様な声が聞こえてくる。

ぼくは、女の方に様子を伺わせんなよ、と思い、それもまあぼくには関係ないと結論づけて、眠りに落ちた。

小説002 / 一話

政令指定都市とは言うが、夜の九時でも両手を広げて歩ける程に人は歩いていない。これくらい人が少ないなら、この街でなら唯一の存在になれるだろうか。

 

駅前よりは人が密集している三両編成の電車に乗り込み、四人掛けの椅子に座った。目の前の高校生のカップルが僕がいるにもかかわらず愛を囁き合っては(本当は愛なんて囁いてはいないのかもしれない)歳から不相応な接吻を交わしている。あまり興味がないけれど、窓の外を見ようとしても、反射してその姿が見えるからいっそ、二人を見ていることにした。

 

四駅くらいして、彼女の方が別れの挨拶をし、電車を降りて行った。窓の外からも彼氏に向かい、手を振って、間も無くして電車は走り出した。

手を振る相手を置いて走り出した電車に残された彼の方は、スマートフォンを取り出し、何かを打ち込み始めた。

置いて行った彼女へ連絡しているのだろうか、それとも愛について調べているのだろうか、興味は無いから、窓の外の景色に集中することにした。