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家賃3.8万円

死ぬまで、やります

小説003 / 一話


塀を飛び越え、知らぬ人が住む家の屋根を伝い、風を切りながら空を駆ける。
いつもはこんな、人ならざる行動は抑えてはいるが、しかし今日に限ってはそんな余裕は無い。

 

急がなくては。

 

最寄りの駅からバスで二十分、そこから更に普通の人が普通に歩いて十五分の場所に位置する辺境の地に在る大学の六限目が終わったのは午後六時。
現在時刻は午後八時二十分。
メールの着信から四時間が経っている。
もっと早くに気がつけば、授業なんて抜け出して走り出していたのに、タイミング悪く授業中に携帯を見れば「集中しなよ」と肘をついてくる他称天才少女が隣に座っていて、彼女に反応するのは面倒だから、携帯が鳴っている事に気が付きながらも僕はその振動を無視し真面目に授業に取り組んでいた。その後、彼女に連れられて一人じゃ入れないというファストフード店で新商品の品評会なんてしていたらこんな時間になっていた。

 

急がなくては。

 

閑散とした地域から、姉貴が入院していた病院に向かう。徐々に建物が多くなり落下する危険は減るのだけれど、通る人も多くなり、そのため僕が屋根を駆ける姿が誰か目に写る可能性も増えていき、それが姉貴に伝われば殺されるかも知れないけれど、そんな事はどうでもいい。

 

急がなくては。


そうして、僕がたどり着いた頃にはもう午後の九時を回っていて、病院の周りはとしていた。
屋根伝いに走りながら「屋上から姉貴の病室の窓に飛び入れば一刻も早く姉貴に会える」と思ったけれど、しかしその選択肢はやめ、極力人目に付かないよう地面に降りる。
そうしたのはいきなり押し掛けては姉貴に負担がかかるかもしれないと思ったからだし、それに、姉貴は今までいた僕が知る病室ではなく、他の病室に移動しているかもしれない。

よく分からないのだ。
出産の事については。

だから、人ならざる移動はすれど、人としてしっかりと、病院の受付で名前を申し出て、その可愛い受付の人が主治医に話しをしてもらいに行った永遠にも思える五分弱、その間ずっと姉貴から貰った腕時計を見て過ごし、そして、

「ただいま、面会謝絶となっております」

と言われ、僕は凍りついた。

 

病院で面会謝絶と言われ、家族だからと言ってもそれを覆すこともできない無力な僕はあまりの遣る瀬無さに受付の可愛くもないお嬢さんに何も言わず背を向けて、病院を出た。
けれどやはり諦められないから、病院の受付からは見えない位置から壁伝いに屋上まで上がり、広紀さんに「屋上にいます」とメールを打つ。
もしかしたら会えなくても姉貴の様子を聞くことくらいはできたかも知れないけれど、しかし僕は実際の姉貴か、広紀さんから話を聞く以外に信じられない。
僕は姉貴が大好きなのだ。姉貴が結婚した広紀さんはその次で好きだ。他の人からの姉貴関しての話は全て嘘が入り混じっているように思う。

だから、屋上で待つことにした。
煙草を吸おうと思ったけれど、ふと気づく。来る途中にライターを落としたらしい。何処かの屋根の上から滑り落ちて、路上にでも落ちているだろう。走ってきた方向を見ながら、諦めようと思った。

待ち始めてから二十分ほどたった頃に雨が降り始めた。ここに向かっている途中、空は暗く、屋根から二度ほど落ちそうになった事を思い出す。もともと、降りそうな空模様だった気もする。
次第に強くなる雨は、静かになりゆく街をその音で満たす。体が冷えていくのを感じ、雨宿りができる場所を探すが、ここには雨を凌げる場所なんて無かった。病院内に入ろうかと思いもしたけれど、屋上と最上階を結ぶ階段の扉は閉まっていて、その上、何を思ってかやたらと頑丈な扉が取り付けられている。


僕は雨に打たれながら、広紀さんが屋上に現れるのを待った。

 


そして、朝になった。

現在、午前七時。あれから雨は降り続け、未だに僕を濡らし続けている。
今日は大学の授業も無いし、広紀さんが屋上に来ずとも、あと二時間ほど待ったのちに面会をもう一度申請すれば、姉貴の様子を知れるのでは無いかと思った矢先、頑丈な作りの扉がゆっくりと開いた。

そこから、スーツ姿のすげえイケメンが、姿をあらわす。雨に濡れるのも厭わず、僕に駆け寄る。
そして彼は、言った。
「悪い! 病院を出てからメールに気がついた!」
そういう声は謝っているようには聞こえなかったけれど、僕は笑って答える。
「きっと、それどころじゃなかったでしょうしね」
「悪かった。 それを分かりながら君は俺にメールしたみたいだけどね!」
と、一夜の間待った僕を労う気なんて全くない様子で元気に答える彼にはしかし何だかその声に疲れが混じっている気がした。
「姉貴は?」
僕は、今日、厳密に言えば昨日、ここに来た理由をやっと聞いた。
「ああ。帝王切開だからね……数日は痛みを伴うらしい。けど、子供は無事に生まれたよ。元気かは分からん。泣いていたからね」
そういう彼は、とても、嬉しそうだ。
「そうですか。痛みって、どれくらい?」
「さあ……? わからない。知れないさ」
「……確かに。すみません。変なことを聞いて」
そういうと、彼は「いや」と手を振った。
「君が伊織のことが大切なとこを俺は知っているからね。かくいう俺も妹が大好きで、俺のことが好きで仕方がないだろう姉貴がいる。だから、その気持ちは分かる気がするよ」
「すみません、ほんと……」
いや、ほんとさ、と笑いながら、
「まあ、兎にも角にも、大丈夫さ。……伊織にあっていくかい?」
そう言いながら広紀さんは、腕時計を見やる。もしかしたら、会社に向かわなければならないのかもしれない。
以前、「出社する必要はなく、仕事をこなせばいい会社」と言っていたけれど、やはり仕事には行かなければならないのだろう。僕は、話を切り上げることにした。
「いえ……雨に濡れて不衛生だし、姉貴が大丈夫ならそれで良いです。それに痛みが伴うというのであれば、もう少し経ってからまた来ますよ。そのうち連絡も来るだろうし」
そう、そもそも姉貴の出産と聞いて、落ち着けなくて、俺は駆け出してしまったのだ。少し落ち着けば良かったものを、姉貴に会いに行くために、そのくせ姉貴が聞けば咎められるような行動をしてしまったのだ。
「まあ……」
と、色の変わり始めたスーツを少し気にしながら、広紀さんは言う。
「心配なのは、分かる。俺は、その君の行動は嬉しいしね。恋愛感情ではなく、伊織を守れる男が二人……いや、俺の親父も含めりゃ三人か。それだけのガードがあればあいつは不幸に襲われる事も無さそうだし」

そう言って、僕たちは一緒に病院を出た。

 

広紀さんとは駅で別れ、僕は家よりも近くにある友達の家に向かうことにした。
「うわっ! 何でそんなに濡れてんの! 気持ち悪い!」
そう言いながら風呂場からバスタオルを持ってきてくれる彼女はやはり、僕の唯一の理解者だった。

彼女が講義の時に僕の隣に座ってさえいなければ、僕は姉貴の出産に間に合ったのかも知れないけれど、けれど、僕はやはり姉貴のすぐ側に居ることは叶わなかっただろう。その役目は広紀さんにある。弟は出産には立ち会えないと思う。両親ならともかくそう思う。分からないけれど。

だから結局、僕は病院の中で出産のその時が終わるのを待つか、病院の外で姉貴の様子を聞くかという違いしかなかったと思う。
事の成り行きを彼女に伝えると、
「じゃあ体で払う! 払い続けるよ!」
と、言うので、僕は「遠慮しておくよ」と丁寧にお断りした。
しかし、と僕は考えてみる。「体で払ってもらう、つまり繋がって子供を産む行為をおこなう」というのはつまり「子供が生まれる」ということだ。
僕は、それが起きたからこそ、取り乱してしまった。
僕にも、僕が生むわけではないけれど、そういった時が来たら、姉貴は俺の所に駆けつけてくれるだろうか。
やってみる価値はありそうだ。
「前言撤回。やっぱり、良いよ」
僕はそう言ったけれど、彼女はいつの間にか、この部屋には居らず、キッチンの方に立っていた。
遠くから、彼女が「何か言った?」と声を上げていう。
僕は「なんでもないよ」と、同じくらいの声で返した。


二人でテーブルを囲む。
並べられた朝食は、彼女の普段通りの食事で、この食事に関して彼女はいつも「私ってば天才ね」と言うのだけれど、こればかりはあまりに普遍的すぎて、他称天才とはならないだろう。
けれど、僕はこの朝食が好きだった。
彼女の見た目に反して、日本人然とした朝食。白米と味噌汁と鮭の塩焼きと海苔。
毎日来ているわけではないのに、僕が来るときには必ず二人分の食事がこさえられて、僕はいつも不思議に思う。
彼女曰く「君が来るタイミングなんて簡単に見当がつくのよ。何ならカレンダーに書いてもいいくらいにね」ということ。
それを聞いた僕はカレンダーに書いてくれよ、そしたら僕はその日以外にここに訪れるから、と言ったけれど、彼女は「そしたらまた、同じことよ」と言い、部屋に掛けられた無骨なカレンダーに、僕の未来の来訪日の印は未だ書かれていない。
僕たちは、こうして二人で食事を取るとき、他愛もない会話をする。主に、最後に出会った日から、また出会い食事をとるその瞬間までに起こった事がそのほとんどを占める。
「その広紀さんって方の名字はもしかして、石鯛だったりする?」
彼女は鮭に箸を伸ばし、その身を半分にしながら言う。
「え? 言ったっけ? そう、石鯛だよ」
僕は少し驚き、動かしていた箸を空中に静止させた。
「有名な人さ。……驚いた様子だけど、しかし本当に驚いたのは私の方だよ」
と、さも平坦に言う。細かく分けた鮭を口に含み、食べながら彼女は言う。見た目は可愛いのに食い方は汚い。そこはたまに残念に思う。
「まあ、どうして有名かと問われれば答えに困るのだけどね。けれど、悪い意味で有名というわけじゃあない。少なくても君にとっては、良くも悪くもない。ただ、有名な理由があるというだけだよ。だから、君は誇っていい、有名な人と姉貴が結婚した、と。なんなら君はもう、働かなくていいほどの資産も共にあるぜ! なんて言っても差し支えないね」
「え? そのレベル?」
僕は彼女の言葉を信じきれず、訝しむ。僕の知る広紀さんは、ジャンクフードが大好きで節約のために煙草の本数を減らし酒の席では割り勘でとても庶民的な人だ。
「うん、そのレベルさ。君は心から信じている人と、そうでない人の区別があまりにも両極端だけれど、しかし信じる事と縋ることの区別がついているからこそ、石鯛という人間の財力を教えるのだけれど、彼はとても……凄く財力を持つ男だよ」
「へえ……」
と僕は、なんとも間の抜けた声出してしまう。
日頃の彼の庶民的な印象からは想像がつかないその事実は、僕の心から信じる彼女の言葉だから信じることはできるけれど、しかしそれが石鯛広紀さんという人間像に当てはまるかといえば、そんな事はない。
意外な一面を知ったけれど、それは実は違う石鯛広紀だった、そんな矛盾した感覚になる。
そうして、食べながら話す彼女は食事を終え、食べながら話さない僕は食らいきれていない鮭を食べ始める。
僕が食べ終わると同時に彼女は立ち上がり、食器をお盆に乗せながら言った。
「まあ、私ほどじゃあ、無いけどね」

僕は今日、授業がないのだけれど、彼女には授業が無い日が無い。
従って彼女は大学に向かう準備をし、当然のように僕は寝転がって本を読んでいた。
「濡れた服は洗濯しておくから置いておいてくれ。部屋を出る時は鍵をかけるのを忘れないでね。っていうか、帰る気ある?」
「ここに居てはだめなのか?」
「……別いいけど、どうせ昼には帰るでしょう? それなら一緒に出たいよ。行くときは残していくのに、帰ってきたら居ないなんて、そんなの、寂しすぎる」
そう言いながらも微笑む彼女は、それでもそれが本心で、寂しさがあることを語る。
しかし、時刻は九時二十分で、今日よら授業は十一時から始まるという。ここから最寄りの駅までは、彼女の足なら走って二十分。次の電車は九時四十分。その次は十時半。次の電車を逃したら遅刻するだろう。僕がこれから立ち上がり、本をカバンに詰め、ジャケットを羽織るという一連の身支度で五分かかるので、一緒に家を出ることは嫌じゃないけれど遅刻は逃れられない……と、そこまで考えて気がつく。
気がついた僕は、言う。
「歯磨きしてないけど?」
「問題ないよ。不衛生の才女とは私の事さ」

小説002 / 四話

くだらない自分語りをしてしまうくらいには、今のぼくは暇だ。

いま、この一時が暇なわけではなくて、いまこの生活自体に暇を感じていた。それは刺激を求める若者のそれで、こんなものはもっと歳をとればなくなる感情だとも思う。そうは思っても、暇だというのは間違いなく事実で、ぼくは暇を潰せる何かを――新しい何かを求めていた。

とはいっても、新しい何かを始める労力を嫌うぼくに出来ることといえば、手元にあるスマートフォンで知らない世界のことを調べることくらいだ。

 

ふと、SNSで流れてきたまとめサイトの一つの記事が目に留まった。

(今、流行りのスマートフォンアプリ「Ark」その実態に迫ってみた!) 

 

なんとなく、その記事に目を通してみる。

その「Ark」というアプリでは、ある場所がランダムで指定されいて、その場所では指定された時間に何かが起きる、らしい。事前にその何かに参加するには自身のプロフィールを登録する必要があり、その時間までに掲示板で情報交換ができるというもの。

その場所で起こる事をイベントと呼ぶらしいが、その時間になってみないとイベントの内容が分からない事、そもそも何も起こらない事なんてザラにある事を踏まえた上でも、興味深い現象が起きているらしい。

 

(「Ark」が予知? 殺人事件の実態に迫る!)

(模倣犯によるもの?  爆発するドラム缶)

(辺り一帯が停電!  人為的なものではないとの事)

(花火大会、一斉噴射! 死傷者は無し)

 

他にも何件あるらしいが、それがどれも「Ark」によるイベント発生地点で起きた事らしい。

 

まったくもって、まともな記事ではないと思う。本当にアプリの予定通りに何かが起きたなんて信じることはできないし、そんなものに時間を費やしている人がいることすら阿呆臭く思えるけれど、興味をそそられはした。

 

暇つぶしになるのなら。

 

アプリをスマートフォンに入れるのはそんな手間でもないし、実際に「Ark」で遊ぶのは後で考えればいい。気が向いたらやろう。

 

小説002 / 三話

現代人には、好きな人がいない。

そんな売り文句が流行っていて、ぼくもその中の一人だ。
けれど、そう言う著者の大半は恋愛における好きな人のことを言っていて、ぼくの場合はもう、恋慕なんて関係なしに好きな人がいない。
いや、いるのかもしれない。自分の中で良い感情を持っている人に対して、好きだという評価を付けることはできる。できるけれど、しかしそれは、好きな人を誰かに挙げなければいけない状況でしか生じ得ない。
 
まあ、人間そんなもんか。
 
そんな自分の事を淡白だとか、冷たいだとか、そんなふうに思ったことはない。それが自分なのだし、周りの好きだという感覚なんてわからないのだから、ぼくが淡白なのか、冷たいのかなんて決めることはできない。
ただ、周りからそう思われるかもしれない、という可能性に気がついたのは、そんなぼくの考えを聞いた友達が「彼女が出来たらそういうこと言わないほうがいいよ、冷たい人間だと思われるから」と言っていたからで、こんな僕の考えを誰かに言うことなんてほとんど無いだろうから、ぼくはきっと、周りからそう思われることはないだろう。
普段の生活で冷たい人だと思われるような行動は慎んでいる――というより、誰かに助けを求められた時や、手伝いが必要だと思われるときに手を貸すことは厭わない人間だから、むしろ優しい人間だと思われていると思う。
思われていたところで、何がどう変わるわけでもないのだが。
 
 

小説002 / 二話

駅前で路上ライブを行う少年がいた。

 

-さよならって言えたなら、少しは楽になったかな。

 

音楽とは素晴らしいものだ。

言葉にしただけなら、ただ恥ずかしくなるものでも音に乗せて歌えば伝えられる気がする。とは言っても、ぼくには音楽の才能はなかったからもうギター弾くことはないだろうし、自分の気持ちを人の歌で代弁してもらおうなんて思わない。自分の気持ちを歌っている歌を探して出して、つたえたい相手にプレゼント、なんてつまらない人間のやる事だ。

 

だからこそ、自分で歌を作って誰かに歌える人はとても魅力的で、とても悔しく思う。

 

/

 

ただ生きているだけで時が過ぎて、今年で二十七歳になる。

果たして、今日は仕事帰りに友達と飲んだのだけれど、解散してから今まで何をしていたのか思い出せないが、時刻は深夜二時を回っていた。

去年に越してきたアパートの玄関のドアの鍵穴は錆びていて、開けるのにはちょっとしたコツが必要だ。酔った頭ではうまく開けられない。

そうして手間取っていると、隣の部屋から一人の女性が出てきた。

 

「……大丈夫ですか?」

 

こんな時間に鍵穴に苦戦していたからだろう、十センチほど開けたドアの隙間から不審そうな顔でそう言った。

「ああ、すみません。こんな時間に、迷惑でしたよね」

精一杯の社交的な、けれど申し訳ないというニュアンスの表情を作り、彼女にとって謝る。

「いえ、この時間は起きてるので、大丈夫です。そっちのドアも、鍵が開きにくいんですね」

彼女はそう言って微笑んだ。ドアの隙間は変わらないから、警戒は解いてないのだろう。

その後、それじゃ、おやすみなさい。と言って彼女は部屋に戻っていった。

そうこうしながら、やっと開いた扉から部屋に入り、すぐにベッドに仰向けになる。

 

考えてみたら、隣人の顔を初めて見た。

築何年経ったかも分からないほどのアパートに、ぼくと年齢の近い人が住んでいることは知っていた。

隣の部屋からは、若い異性の性行為の切れ端の様な声が聞こえてくる。

ぼくは、女の方に様子を伺わせんなよ、と思い、それもまあぼくには関係ないと結論づけて、眠りに落ちた。

小説002 / 一話

政令指定都市とは言うが、夜の九時でも両手を広げて歩ける程に人は歩いていない。これくらい人が少ないなら、この街でなら唯一の存在になれるだろうか。

 

駅前よりは人が密集している三両編成の電車に乗り込み、四人掛けの椅子に座った。目の前の高校生のカップルが僕がいるにもかかわらず愛を囁き合っては(本当は愛なんて囁いてはいないのかもしれない)歳から不相応な接吻を交わしている。あまり興味がないけれど、窓の外を見ようとしても、反射してその姿が見えるからいっそ、二人を見ていることにした。

 

四駅くらいして、彼女の方が別れの挨拶をし、電車を降りて行った。窓の外からも彼氏に向かい、手を振って、間も無くして電車は走り出した。

手を振る相手を置いて走り出した電車に残された彼の方は、スマートフォンを取り出し、何かを打ち込み始めた。

置いて行った彼女へ連絡しているのだろうか、それとも愛について調べているのだろうか、興味は無いから、窓の外の景色に集中することにした。

小説001 / 一話

小説001。

俺は英雄なんかじゃない。ただ、ヒトとは違うところがあっただけ。

幼い頃、俺は親父からよくそう言われていた。

それは周りの人たちが、親父のことを見るたびに英雄だとか、ヒーローだとか、そう言っているのを聞いた日の夜の定型文みたいなものだった。

聞かされるたび、ヒトは違い、だから周りの人は英雄と呼び、でも英雄じゃないなら、周りの人からは親父は英雄というヒトじゃない生き物に見えて、俺にとって親父は親父という生き物、と混乱したのち、俺は親父はヒトではないんだとしばらくの間そう認識していた。

だからお前は、俺がなぜ英雄と呼ばれているかなんて、知らなくていい。お前は英雄の息子じゃなくて、只の俺の息子で、只の椎名真城なんだよ。

そう言われるたびに、俺は只の椎名真城なんだと思った。親父のことは好きだったから、それは良い感情だったと思う。

だから、親父がなぜ周りの人から英雄と呼ばれているかなんて気にもしていなかった。

俺は親父が好きだったくせに、周りの人が本人が否定している英雄という言葉を親父に向けても否定もせず、嫌悪感も持たなかったのは、俺の中で親父は親父でしかなかったからだったと思う。子供心は複雑だ。

親父はよく、俺と一緒に遊んでくれた。

むしろ親父の仕事は、俺と遊ぶことだったように思う。母さんは働いていたから、主夫みたいなものだったのだろう。親父の作る飯は美味しかった。椎名の婆ちゃんの飯を食うと今でも思い出す。

あれは五歳か六歳ごろだった思う。母さんが仕事に行った日曜日、親父と公園でキャッチボールをしていた時、どうしても親父が投げてくるボールを取れずに体で受け止めてしまっていると、親父が言った。

「ボールだけを見ろ。ミットは添えるだけだ。そうすれば取れる。ボールが動く様がわかるようになってくる。慣れてきたら回転も分かるようになってくる」

それを聞いて俺は、ボールだけを見続ければ回転がわかるようになるということは、今はものすごい勢いで向かってくるボールがゆっくりに見えるのだと、そう思った。

足元に転がっていた硬式のボールを模した柔らかい球を親父に投げ返し、親父がまた俺に投げ返すために振りかぶったその瞬間、俺は「ボールがゆっくりに見える」と、意識して、

世界をスローモーションにした。

何が起きたのか分からなかった。

最初は親父が放った球の回転が本当にゆっくりに見えて、やっぱり親父の言うことは正しいんだと思った。

しかし、宙を舞った球はなかなか俺の元へはこない。気がつけば周りの風景も一様に遅くなっていて、流れる音も引き伸ばされ、俺だけが世界に取り残された感覚だった。

世界が変わっていることに気がついた俺は、宙に浮いた球が自重に逆らえず下へ向かう球の向こうにいる親父に何が起こっているのかを聞こうとその顔見た。

親父はとてもゆっくりとした変化で、それこそ表情筋の動く様が分かるほどの速さで、驚きの顔へと変わる途中だった。

親父は、何かを叫ぼうとしていた。

その声はとてもゆっくりで、でも遅くなった親父が伝えようとするその言葉を辛抱強く待った。

親父が好きで、その親父の言葉を大切にしていて良かったと思う。まあ、嫌いだったらキャッチボールなんてしていなかったように思うが。

引き伸ばされた親父の声が俺に届くまで、どれくらいの時間が経ったかは、分からない。実際は数秒で伝わるその言葉は、体感時間でゆうに3分くらいはあったと思う。

最初の言葉は、も。

次の言葉は、ど。

次は、お。

その次は、て。

その後次は、こ。

最期に、い。

言葉にして、確認する。もどおてこい、いや、多分、戻って、こい?

もどってこいって、なに? どこに?

俺がそう返すと、親父は何かを叫びながら、俺の方へ走り出そうとする。

その動きはとてもゆっくりで、でも俺は、やっぱり待っていた。親父の目からは数秒、立ち止まっていたように見えただろうが、今なら分かる。親父がどれだけの時間を俺が過ごしていたかを、親父は分かっていただろう。

親父のその腕が俺を掴み、抱きかかえる。スローモーションで持ち上げられる経験は、後にも先にもそれしかない。

そして、進み出す。振り返ると、宙に浮いていた球は遠く転がっていて、回転をやめていた。

そこからが長かった。

親父はまっていろ、と言う言葉を発したのち、他になにも言わなかった。引き伸ばされた時間の中で言葉を聞く大変さを知っていたからだ。

親父が向かっているのが家だと言うことに、その道中の半分ごろに気がついた。

家に戻るの? と俺が聞くと、親父は言う。

い、え、に、い、け。

その言葉を聞いた俺は親父の腕から飛び降りると、先に行っていると叫びながら、走った。親父の表情は必死で、その言葉に従わないといけないと思った。

家の郵便受けの後ろに隠してある鍵を使い、ドアを開ける。自分が触れているものはゆっくり動かない、と言うことに気がついたのは後になってからだ。

家に行けと言われたものの、来てどうすればいいか分からない俺は、また親父の元へ何をするか聞きに行こうとも思ったが、家に行けと言われている以上、待つべきだと思い、茶の間に入る。

テレビでもつけようかと悠長な事を思ったが、テレビもゆっくりに見えるだろうと流石に分かり始めていた俺は、ふと、どれくらいの時間が経ったのか気になった。

古い木造の家、それを支える柱にかけられた親父の煙草のパッケージが印刷された時計は、止まっているように見えた。

どれくらいの時間が、遅くなっているのだろうと、気になった。同時にもしかしたら俺は、人より長い時間を過ごせるのではないかと思い、夜寝る前の好きなことができる時間だったらまた、この世界が来てもいいなと思いながら、時計の秒針が動くのを待ち、一瞬震えた秒針が動き始める瞬間を初めて見たなあと思いつつ、間延びした音を聞いた瞬間、

意識が途絶えた。

目が覚めたのは、夏休みに入って一週間が経った日だった。俺が親父とキャッチボールをしたのは、五月の中旬で、丸二ヶ月は寝ていたことになる。体重がものすごく減ったし、注射の針の跡が残った。

しかし、それは大したことではなかった。

目が覚めたと報告を受けた両親は俺の顔を見るなり、泣き始めた。

そして、ものすごく謝られた。

最初で最後の英雄という生き物が泣く瞬間だった。

その後、俺は親父に、俺が何をしたのか、何ができるのか、というのを教わった。それは親父にもできることだったが、しかし俺にまでできるとは思っていなかった、とも聞いた。

まあ、一言で言えば、自分以外の時間を引き延ばすことができる、というチカラ。親父が自分はヒトとは違うと言ったその理由も、その時に理解した。

その引き延ばす時間の密度や長さも、調整することができるという事、そして戻ってくるためには俺の場合、時計の針の音を聞く事ということも教わった。

親父は、意識の問題だ、と言っていたが、幼い頃の俺はトリガーになるものが必要だった。今でも、親父のように意識だけで元に戻すことはできないとおもう。

親父はそのあと、時間を引き延ばすと自分がどのように見えるかを見せてくれた。

これが面白いもので、人の何倍も早く動いているように見えるのだ。親父は伸ばす時間の密度によって、見え方が違うと言っていた。

親父にはその後、時間の引き伸ばし方を教えてもらった。俺はチカラを使うトリガーは意識だけで引けるようでそこは苦労しなかったが、どれだけ引き延ばすかを調節するコツを覚えるのは苦労した。

何度か吐きそうになったし、実際、何度か意識が飛んだ。このチカラは、それなりに体力を消耗するらしい。そんな姿を見た親父は毎回泣きそうな顔で謝ってきたが、それでも親父は、このチカラの使い方を覚えさせたいようだったから、なんども練習した。今になって思えば、自分のチカラで困らないようにいて欲しかったのだろうと思う。確かに、二ヶ月も意識のない息子を見たらそうなるだろう。

そして、最後に、むやみにこのチカラを使うな、と言われた。

俺がチカラをある程度は使いこなせるようになったのは中学生の頃で、流石にむやみに、と言う言葉の意味は分かっていたし、大量を無下に使いたくないし、概ね同意した。

親父が死んだのは、その一年後だ。

死因は事故死だった。

車に跳ねられて頭を打ち即死。

避けようなんていくらでもあっただろう、なんて母さんには言えなかった。

親父は、時間を引き延ばすために、俺とは逆になにかのトリガーが必要だと言っていた。それがなんなのかは、結局教えてもらう機会が無かったから今でも分からない。

もう一つ分からない事がある。

親父がなぜ、英雄と言われていたのかを結局、聞くことが出来なかった。

まあ、親父は親父という生き物だ。それだけだ。多分、時間の引き延ばしに関係しているとは思うが、それを誰かから聞こうと思わない。

英雄の死は、俺が思った以上に世間では取りざたされた。テレビで何度かニュースで流れていたし、地方紙では一面を飾っていた。

残された俺と母さんは、母さんの実家に戻る事にした。加えて、親父の遺言があり、なんでも苗字を婚前に戻してほしいとのことで、俺が高校に行く頃には椎名から黛になった。

そのおかげもあって、英雄の息子、なんて言われることもなく過ごすことが出来た。

そこから先は、ふつうの人生を送っている。

時間は引き延ばそうとは、全く思えなかった。

その必要もなかった。

流れるままに、生きていた。

ふつうの人生こそ、最高だ。

親父は、俺に、どうして欲しかっただろうか。

それは、わからない。