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死ぬまで、やります

個人的介護理論Ⅰ

真面目に書く。

 

 

 

内容の全てが偏見と個人的な主観。

 

 

 

介護歴:8年目

経験:訪問介護・有料型老人ホーム・一般(特定)相談支援専門・特別養護老人ホーム

 

 

 

皆さんは、『介護』と聞いて、どんな景色を思い浮かべるだろうか。

 

 

 

車いすの老人と共に、散歩を楽しんでいる姿だろうか。

 

 

昨今話題の虐待が日常的に行われている風景だろうか。

 

 

 

 

まあ正直、そうでもない。

 

 

 

 

 

 

 

俺の考え方は『福祉サービス』は『受けなくても良いなら、受けない方がいい』という前提から、全ての支援に繋がっている。

*ここでいう『福祉サービス』とは、老人ホームや、ホームヘルパー養護学校などの総称。

 

 

 

 

 

……というのは言い過ぎているので『自分が介護をしている』という意識はそこまで必要ではないかな、と言い換えておく。

 

 

 

 

 

いま一度、介護の現場を思い浮かべてほしい。

 

 

この際、介護じゃなくてもいい。

 

 

 

例えば、『自閉症』の少年が居たとする。

 

 

社会そのもの(俺たち)が『自閉症』による社会に馴染みにくい性質を『問題』として捉えなければ『福祉サービスによる養護学校』は必要が無い。

 

 

 

例えば、『認知症』のお婆さんが居たとする。

 

 

便や尿をトイレでうまくできず、ところかまわずまき散らしてしまうが人間の機能として『問題』が無いのであれば、介護職は必要が無い。

 

 

 

けれど『自閉症』によって社会性がも低下してしまう人と同じレベルの社会は機能しないし、『認知症』でトイレに行けないお婆ちゃん、ひいては周りの衛生を考えると排泄の介助は社会的に絶対に必要になる。

 

 

 

 

そういった『障がい』によって不足した部分を補うのが『福祉サービス』だけれど、当人にとって『普通の生活』を送るためには『福祉サービス』の従業者であるという意識は無くても『不足分を補うだけの手伝いをしながら一緒に暮らす人』という感覚さえあれば、良いのかなと。

 

 

 

それは、職業としてもそうだし、日常生活で介護を行う人にも同じことが言える、と思っている。

 

 

 

 

ただ、暮らしているだけで、足りない箇所を補っているだけ。

 

 

 

 

車椅子で散歩をするのだって、歩けないから器具を使って、それを使うのを手伝っているだけ。

 

 

 

虐待は、健全でも倫理に反するのだから、していなくて当然。

 

 

 

 

 

足りない部分を補う福祉サービスを、申し訳なく思われることは多く、そういった意味でも福祉サービスという言葉は要らない、と思っている。

 

 

手伝っているだけ、一緒に暮らしているだけだから、というのが個人的な考え方。

 

 

 

 

 

 

 

まあ、福祉は保険で賄われているのもあって、給料も現場にいる限り頭打ちだし、ほか行けんなら他に行くけどな。

 

 

 

好きだからやってるけど。